出征機関車の考察-海南島の9600-



台湾の鉄道を調べていて、ふと「海外に日本製のSLってどれくらい残ってるのかな」と気になったのでいろいろ調べてみることにしました。


いざ調べ始めると渡航した機関車の多さにびっくり。

なので今回は9600形について書こうと思います。
画像はC5644だけどw


9600の主な出征先は中国北部。
華中鉄道や華北交通で使われました。
1938年~1939年の間に6次に分けて251両が送られ、その後1941年に追加で4両が送られました。

出征にあたって標準軌改造が施されました。
そのため、改造しやすい住山式給水加熱器装備車が優先して選ばれました。
そもそも9600は、設計された当時の日本で標準軌化が議論されていたので、後から改造しやすいよう設計されたのではないかと言われています。

中国に渡ったのち、華中鉄道または華北交通に転籍となりました。
そこではソリロ形(華中鉄道)、ソリホ形(華北交通)となったようです。
「鉄道遊撃隊」という中国の映画のスチール写真が残っています。

Wikipediaによれば、戦後に華中鉄道の80両が中華民国に引き継がれ、そのうち10両は華北交通に貸し出され、それら以外は日本が管理していた線区で使用されたようです。
中国に引継がれたものはKD5形となり、一部は1m軌間に改造されてKD55形となりベトナムとの国境付近で使われました。
KD5は北京の中国鉄道博物館に373が、KD55は同じく北京の中国鉄道博物館に579と昆明の雲南鉄路博物館に583が静態保存されています。説明書きの製造年が全然違うのが気になりますが、39643のロッドを付けているようです。
ちなみにこの中国鉄道博物館には満鉄のミカイもあって、とても興味深い博物館です。

日本では、1976年3月2日の蒸気機関車最後の日を迎えた3両が9600でしたが、中国では1980年代まで使われていたそうです。


以上が9600の出征の概略ですが、主に華北に運ばれたはずの9600が、1985年に海南島で発見されました。リンク先で触れられている、鉄道ジャーナル1986年12月号の北龍一氏の海南島事情「宝島"火車"有情」を拝読しましたところ、時勢で規制が厳しい当時の様子や、初めての日本人による取材ということでかなりの待遇であったことが書かれていました。このときに休車状態の9600を発見したそうです。


では、この9600(KD5 207、262、411、444)はいつどこから運ばれてきたのか。


Wikipediaには一つの仮説が書かれています。
臼井重信氏が鉄道ファン1979年7月号への寄稿(実際に読んでいません)で、1941年にC50(1~5)が海南島へ配属予定であったのが何らかの理由で台湾に変更になったことで、同年に追加で供出された9600の4両が改軌されずに海南島へ送られたのではないか、としています。

ところが、中国鉄道博物館に展示されているKD5 373(1992年に南京西機関区にて発見)が、追加で供出された4両のうちの1両である9659の第4動輪を履いていることがわかり、海南島の4両は別物ではないかという全く違った説が浮上してしまいました。


どないやねん…。


そこで、日本による海南島の支配に着目しました。
日本軍が海南島攻略作戦を開始したのは1939年2月。同7月には臨時の軍政が設立されます。そのあと海軍由来の組織が統治にあたり、同11月からは広西省南寧を攻める作戦が開始されます。

この時期にどこからか9600を運び込んで物資輸送に充てたのではないか、と予想しました。第6次供出が1939年4月というドンピシャの日程だったためです。

それを裏付けるべく第6次供出の31両をリスト化し比較ました。
すると、同じ機関区に所属し、同じ日に除籍された(供出された時点で国鉄の籍を抹消される)のに、違う工場に運び込まれた機関車が見つかりました。
この機関車は門司港から出港していて、残りはすべて神戸港から出港しています。それはつまり行き先ごとに港を分けたためではないかと推測しました。

そして証拠を見つけるべく、国立公文書館のアジア歴史資料センターで当時の資料を漁りました。
そこで台湾総督府臨時情報部が発行していた部報の第53号(1939年2月21付)に「海南島事情」という記事を発見。そこには「未だ鉄道は敷設されてゐない」と書かれていて、同じく部報第116号(1941年2月15日付)にも「鉄道は一本もありませぬが、…」と書かれていました。


ファ(゚∀゚)


線路の無いとこに機関車なんか持っていくかいな…。
んならいつ海南島に線路ができたんや…。


ということで、粤海線(えっかいせん)について調べてみました。
海南島の南部を通る線路です。
Wikipediaには1940年に日本国内と同じ狭軌の線路が敷かれたとありました。
1941年の部報と食い違うのは、当初は鉄鉱石輸送用の線路だったために周知されていなかったからかもしれません。


おろ?
まだワンチャンある感じ?


そして、その線路にはC12が2両導入されたとあったので、次はC12のWikipediaへ。
戦後に海南島で中国に引き継がれた機関車のリストがあると書いてあったので、またアジア歴史資料センターで探してみました。

「集39号海南島鉄道関係調書提出の件」というそのまんまのタイトル…。
1930年代に絞って検索をかけていたせいで見つけられなかったようです。
ここには、D51やC12は書かれていますが9600の記載はありません。
てかD51もいたのか…。


それはつまり1945年以降ってことですね。ぴえん。


僕の仮説は儚く散りました。


粤海線のWikipediaには、1958年に全線が標準軌に改軌されたとありました。
どうやらこの時期にKD5を運んできた可能性が高そうです。


じゃあ追加の4両はなんだったんや!


上述した「鉄道遊撃隊」という映画は、中国のゲリラたちが日本の列車を襲っていた実話に基づいたストーリーだそうです。このような襲撃や事故、故障によって破損したときに部品を日本から送っていたようです。修理不能になった機関車が発生したり線路拡大によって不足した分の補填と考えるのが妥当かと思います。


海南島で発見された4両は現在行方不明です。
八所というところに海南鉄路博物館があるそうですが、建設型の写真しか見つけられませんでした。


アジア歴史資料センターには相当数の資料があるのでそこに余地はありますが、転籍時の改番を照合しないかぎり海南島の4両を特定するのは難しいのではないか、というとてもありきたりな結論に至りました。
それにしても、80両しか引き継がれなかったのにKD5は少なくとも444まである。何かしら付番のルールがわかれば楔になるかもしれませんね。


ていうか北氏が刻印の写真を撮ってくr…ゲフンゲフン


この他にもいろんな可能性はあると思います。
廃車体から部品取りをするのは常套手段ですし、一度分解してから現地で組み立ててましたし、そもそも刻印を読み間違えることもあります。

資料は完全ではないし、当時を知る方々にお聞きすることも難しく、断定することは相当困難だと思います。

ですが、日本人が去ったあとも走り続け、いまでもその姿を留めているということは紛れもない事実です。

彼らのドラマが完全に失われてしまう前に、少しでも明らかにできればいいなと思っています。




これはもう現地調査しかない、のか…?

コメント

  1. 【6/14追記】
    鉄道ファン1979年7月号を購入し臼井重信氏の寄稿を拝読しました。

    真新しい発見はありませんでしたが、仙台鉄道管理局の配置表欄外の9659外地転出というメモから改軌せずに外地へ送られたという推測に至ることは納得できました。

    ただ、そのメモの存在が「証言」を元にしている点で不確かな要素を残していることや、9659の動輪を履いた車両が南京西機関区で発見されたこと、中華民国の引継資料に9600の記載が無いことという揺るぎない事実を覆せるものではありませんでした。

    しかし、粤海線を調べていて、1946年と1948年の二度に渡って線路が台風被害を受け営業停止になっていたことがわかり、1957年に八所~石碌の修復が完了するまで鉄道が走っていない状態だったようです。

    八所~石碌が先行して修繕されたのは鉄鉱石開発が目的だったようで、まだこのときは1067mmだったそうです。この区間の標準軌への改軌が完了したのは1961年だったようなので、それまでは狭軌9600の出番はあったかもしれません。

    そうなると、臼井氏の説を正として1961年改軌完了時に狭軌9600は解体され部品が南京に送られた、という推測もありえなくはないと思います。

    とはいえ、搬出された港まで追える他の機関車とは違い「外地転出」のメモしか無いことは気にかかるものの、現状では9659他3両と海南島で発見されたKD4両は別物と考えるほうが妥当かなと思いました。

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